山下浩二さん (Double)

山下浩二さん (Double) | この人から学ぶ成功の秘訣 TBMG

兄の誘いで美容の世界へと飛び込み、大阪、鹿児島を経て東京の人気サロンにたどり着いた山下さん。そこで美容師としての土台を作り上げ、時代の変化を鋭く読み、独立を決意。以来、美容業界のトップを常に走り続け、全国の美容師から絶大な人気を誇る存在となりました。常に色褪せない作品作りへの情熱、山下さん流のスタッフの育て方、今後の美容業界について思うことなど、長きにわたる美容人生と美容道について、じっくり語っていただきました。

ライター 森永 泰恵 | カメラ 佐野 一樹 | 配信日 2018.5.24

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親元を離れて独り立ちし、大阪のサロンに就職

美容師になったきっかけを教えてください。

山下浩二さん (Double)

僕は元々、美容師になるつもりではありませんでした。高校時代はインテリア科でしたので、インテリア関係の仕事に進む予定でしたが、大阪で美容師をやっていた兄から「美容師は頑張れば、いいところまでいけるよ」と言われ、半ばそそのかされて(笑)高校卒業後は、大阪のサロンで働きながら、美容学校の夜間部に通うことにしました。当時は、高校を卒業したら親の世話にはならず独り立ちするのが当たり前の時代でしたから、親からの援助は一切受けず、大阪に上京しました。大阪へ向かう時もお金がなかったので、故郷の鹿児島から20時間くらい寝台列車に揺られる長旅だったことを覚えています。最初こそ兄と一緒に住んでいましたが、早く一人前になりたい思いから、半年後には勤め先の先生が部屋を借りてくださり、一人暮らしをスタートしました。でも、当時の給料は55000円、授業料が月20000円、家賃8000円、光熱費2000円…まともに食べられないですよね。とにかく貧乏で大変な毎日でしたが、今となってはとても貴重な経験ができたと思っています。

原宿の竹下通りで、偶然出会ったミモザに入ることに

なぜ、東京に行こうと思ったのですか?

山下浩二さん (Double)

大阪のサロンに勤めて約1年半、あまりの貧乏で体調を崩してしまい、休養も兼ね故郷の鹿児島へ戻りました。幸い1カ月くらいで元気になったので、鹿児島のサロンで働くことにしました。落ち着いたらまた大阪に戻るつもりでいたのですが、一緒に働いていた子が東京に行くというので、僕も東京に行くことにしました(笑)。東京で一旗揚げてやろうとか、そういう思いは特になかったのですが、修行のために色々サロンを知りたかったのと、東京の空気を感じたかったという気持ちでした。経験を積んで故郷に帰って店を出したい、田舎には知り合いもいるからなんとかやっていけるだろうとぼんやり思っていたくらいで、何も考えていなかったと言ってもいいかもしれません。東京に着き、ananなどの女性誌に出ていた有名サロンをいくつか受けてみましたが全部落ちてしまいました。中には「うちは見た目で採っているから」と言われたことも(笑)。そんな面接の帰りに原宿の竹下通りを歩いていたら、たまたまミモザという美容室の前を通り、店長が店の前に立っているのを見かけたんです。その時ミモザの店長が頭にニューヨークの街並み、マンハッタンを必死に作っていたことにびっくりしました。ミモザはそういう特殊なものを得意とするサロンで、店の外で待ってもらうほどの人気店でした。僕は吸い寄せられるかのようにミモザに飛び込み、働くことになりました。

美容師としての土台を作ってくれたミモザ時代

ミモザでの仕事にはすぐ慣れましたか?

山下さん愛用のハサミ

ミモザの先輩たちは、田舎のサロンでは考えられないスピードで仕事をしていました。当時は今より細いロッドを80本くらい巻くのが当たり前で、それを1日10人以上やり、摩擦で指が擦り切れて出血していました。帰りにオイルを塗ってケアするのですが、先輩いはく「休みが1日あれば治るよ」と。本当に僕にできるかなと不安でしたが、毎日のように巻いていたら、すぐにできるようになりました。1週間もすると東京の生活にも慣れ、ほどなくスタイリストデビューしました。ミモザでの経験が、僕の美容師としての土台を作ったのだと思います。1年半くらい居ましたが、その間に色々な技術を習うことができました。ただ、ミモザは頭をツルツルに刈り上げて文字を入れるなど、個性豊かなデザインサロンでしたので、もう少し普通の技術の方がいいな、と思い、ZUSSOの面接を受けました。

正確で早い仕事は、忙しさの中で培われた

ZUSSOではどのような環境だったのですか?

山下浩二さん (Double)

ZUSSOも猛烈な人気店で、トップが横手さん(現PHASE代表)で、スタイリストではBRIDGEの西本さんや、ACQUAの綾小路さんなどもいました。土日では16~17人は予約のあるスタイリストが何人かいて、10名くらいのスタイリストがいましたが、セット面が13面なので、その時点でもうおかしなことになっていますよね(笑)。席がないのでシャンプー台で手鏡を持ってもらってカットしたりとか、色々考えましたね。諦めませんでしたよ(笑)。シャンプー台の空き待ちは当たり前で、シャンプーをアシスタントに頼むと「えーっと、13番目です」だって(笑)。でも、自分でシャンプーに入れば割り込める感じだったので、カットの途中でお客様に「ちょっと待ってくださいね」と言ってシャンプーに入ったりと、毎日いろいろと忙しくて本当に大変でした。全体をよく見て素早く動かないと全部が遅れてしまいます。とにかく、お客様を怒らせないように、笑って帰ってもらうために、なんでもやりました。そうやってすぐに1日が終わっていきました。大阪時代のお客様は「あんた下手ね」とか「シャンプー、あの人に代わってよ」とか、はっきり言う人が多くて落ち込みましたが、また来てくれて「あなた上手になったじゃない~」と言ってくれて、本当に育ててもらいました。でも東京は、「また来ますね~」と言いながら次は来ないというシビアさがあります。ZUSSOではどんな状況でも一生懸命、手を抜かずやっていれば、お客様は一緒に応援してくれて、笑って帰ってくれました。お客様が、必要とされる美容師に育ててくれたいい時代だったと懐かしく思います。本当にありがとうございました。

「波」が来た!とはっきり感じて、独立を決意

独立の経緯を教えてください。

Double

80年代の後半、僕は20代後半に差し掛かっていました。その頃はバブル全盛期で、原宿にお店を出すには保証金だけでも何千万円という時代でしたが、90年代に入りバブルがはじけ、原宿界隈はガラ空きになったことでお店が持てるようになったんです。当時すでにZUSSOを辞めて、共同経営でサロンをしていましたが、経営に関する考え方の違いもあり、僕1人だけで独立することを決意しました。といっても、所持金80万円だったんですけどね(笑)。バブルがはじけて物件がたくさん空いていたということもありますが、独立に向け方々をかけ回り、94年に原宿にHEARTSをオープンしました。僕には“チャンス”が大きな「波」のように来るのが見えていました。不安よりもやる気の方が上回っていたのを思い出します。この「波」って何か分かります?これは、ヘア雑誌ブームなんです。今ほどではありませんでしたが雑誌の種類が増え始めた頃で、雑誌を手に取る消費者が多くなった時だったんです。そんな中、創刊したてのZipperやヘアカタログなどの美容雑誌、業界に特化した専門誌などさまざまな雑誌に出させてもらう事が続きました。雑誌に参加した事で、企画から加わることが増えたんです。その時、サロン特集を任されるチャンスを頂きました。当時は、特集モデルがサロンのスタッフという場合もあり、クオリティが決して高いとは言えませんでした。そこで、事前にモデルのポラチェックをすることを提案したら、途端に雑誌が売れるようになったんです。今ではポラチェックって当たり前かもしれませんが、当時は革新的だったんですよ。他にも、ZUSSO時代に、その頃の超有名ファッション誌に当時の金額で1ページ数十万円のタイアップ広告を出したのですが、外人モデルと一流メイキャップアーティストを起用してスタイルを作り上げたのに、それを見て来店されたお客様は1カ月に数人でした。でも、別の女性誌でリアルなサロンのヘアカタログや、ビフォーアフターの特集をしたら、1カ月で50人以上も来店されたんです。消費者の求めているものが見えて、その時、「これだ!」と感じましたね。ちゃんとやったら大変なことになる…と。

集客では何の苦労もなく、恐怖感も感じていなかった

サロンが軌道に乗った勝因は何だと思いますか?

Double

雑誌ブームといっても、最初は出版社に売り込みに行っても断れられてばかりでした。当時の美容師はあまり信頼されておらず、どちらかというと馬鹿にされていると思っていました。同じ“ヘア”を扱う仕事でも、ヘアメイクの人より美容師の方が仕事のクオリティが低いと思われていることが悔しかったですね。なので、ビューティーライターさんと一緒に売り込みに行く日々でした。ちょこちょこ雑誌に出させていただきながら売込みをしていたそんな折、ある編集部の方が話を聞いてくださり、試しに雑誌の後方ページで特集してもらったんです。結果的に、その号がすごく売れたこともあり、それ以来、何度も巻頭特集を組んでいただきました。この時代の成功は、ポラチェックにより一定のクオリティを保って掲載できたことがよかったのだと思います。雑誌ブームという「波」に乗って一気に経営も軌道に乗り、スタッフも増えていきました。集客では何の苦労もありませんでした。ブーム時は、多くの雑誌でサロン特集をしていたので、オープン1年半で雑誌の切り抜きを持って来店されるお客様が1日何十人もいて、本当に忙しい時は電話にも出られないという状況になりました。バブル崩壊後で家賃も安かったので、恐怖感は一切ありませんでしたが、今考えれば調子に乗っていましたね。MOONとSNOWというお店を出店、2001年にはその2店舗を統合してDoubleをオープンしました。

忙しくても暇でも、提供する技術は一緒、が信条

 サロンワークで心がけていることは何ですか?

山下浩二さん (Double)

僕は今でもフルでサロンで働いていますが、僕がサロンに立つ上で大切にしているのは、どんなに忙しくても、身体の調子が悪くても、暇な時でも(笑)、ヘアスタイルのクオリティは同じということです。どうしても忙しい時は口数を減らします。スタイル重視でね。それができないのは悲しいですね、仕方がないですが。お客様はよく見ていますよ。バタバタしていても、時間がかかっても、必ずいつものクオリティで帰します。当たり前のことなんですけどね。でも、昔、それができなくて失敗したことがあり、今でも心に残っています。スタイル重視といっても、流行りのスタイルを作るということではなく、とにかくお客様の悩みと心配事をスピーディーに解決したい。僕のお客様は、ほとんどが僕が切らないと髪がおさまらないと言ってくれる人ばかりで、誰が切っても大丈夫な人は、スタッフの誰かが切っていたり、他のお店に流れたりしていますが、ほとんどの人は僕のところに戻ってきます。それでいいと思っています。みんなに好かれるより、本当に困っていて、山下浩二の良さをわかってくれる人だけでいいんです。よく、「似合わせる」と言われますが、僕はそれをヘアカタの撮影やフォトシューティングで身に付けたのかもしれません。作品作りでも、プロモデルは、特に外国人のモデルはほとんど使いません。なぜかというと、美容師にはあまり意味がないからです。街に出て、モデルをハントします。普通の女の子がどこまで変化するか、外国人のプロモデルを使った作品の横に並んでも負けないインパクトをどうやったら出せるのか。答えは“似合わせること”。そして、街で見つけた女の子に一生懸命「髪を切らせてください」と頼み、その責任を果たすこと。この責任とは“似合わせる”ことです。似合ってもいない外国人のモデルより、絶対に素晴らしく見えます。そこにヘアスタイルを写真に撮るという意味が出てきます。

作品撮りには、感性磨きと妄想力が大事

作品撮りで大切にしていることは何ですか?

山下さんの作品

僕の感性は、音楽や映画、あとは妄想によって磨かれていると思います。妄想グセがないと、見たままのものをそのまま作ってしまいがちです。素敵だと思う写真から更に妄想を膨らませることが重要なんです。僕自身、今も作品作りは続けていますが、アイディアストックのために画像や情報をブックマークするアプリ“ピンタレスト”を活用したり、洋書を切り抜いたりしています。最近の映画や音楽も観たり聴いたりしていますが、昔のレコードジャケットや映画のポスターを眺めることでアイディアを膨らませます。特に、70年代、80年代の映画はいつ観てもいいですね。音楽も俳優も素晴らしいので。また、僕は昔から好奇心旺盛で、雑誌撮影の時は毎回カメラマンのいちばん近くに立って、これは何ていう機材?これはどうやって使うの?とか色々聞いて、すぐ同じ物を購入して自分で使いこなせるよう勉強しました。そのうち、写真加工も自分でやりたくなってパソコンを買い、フォトショップを駆使し、プリンターも買って全部サロンでできるように一式揃えました。学ぶことで、何がよくて何がよくないのかの違いがわかってきます。うちのスタッフも全員カメラを使えるんですよ。あと、若者から刺激を貰うようにしています。僕は若い子の感性が好きなんです。中にはあまりいいとは思えない音楽を聴いている子もいますが、それを聴くということが僕にはあり得ないので、その感性をもらいたい。そうすると古いまま固まらないと思っています。昔のものの方がいいと思いますが、それだけだと古くさいのです。最新が最善なんです。それを言わなくなったら終わりだ、と思っています。

みんなで“いい夢”を見て、おもしろい業界へ

 今後の美容業界について、ひと言お願いします。

山下さんとスタッフ

よく今まで美容師を辞めようと思ったことはありますか?と聞かれますが、僕は美容師を辞めようと思ったことも、辛いと思ったことも一度もありませんが、あえて言うなら、今が一番辛いのかもしれません。若い美容師がいい夢を見なくなっているかもしれないですね。いい夢って?とんでもなくでかい夢でもないし、しょぼい夢でもない。僕にとっていい夢って、スターになることさ!(笑)。みんなにうらやましがられること、みんなに一目置かれること、そして何かを変えていくこと。今、みんな目先のことばかりで、早く自由に、とか、ナチュラルに、とか。ゆっくり、ゆったりとか、あわよくばSNSで儲けようとか…。しょぼいですね~。つまらない流行ですね~。あっという間に年寄りになるよ(笑)。もっとダメなのは、安売りすること!!これは完全に業界を壊す悪ですね。そういうところは会社は儲かるかもしれないけれど、すばらしい美容師は絶対に育たない。だから、外からスタッフを引き抜くんですよ。もう世代交代が始まっていて、僕たちの世代はどんどん追いやられますが(笑)、本当にいい美容師、いいサロンを作っていってもらいたいですね。安売り店が増え、98対2になるかもしれないけれど、若い美容師さん達にはがんばってほしいですね。絶対に負けないでほしいです。だからみんながやらないことや、おもしろいことをやって、いい意味の“おもしろい美容師”をもっと応援してほしいですね。よろしくお願いします~♡


山下浩二さん (Double)

山下浩二 (ヤマシタ コウジ)

Double代表取締役。鹿児島県出身。高津理容美容専門学校卒業。94年にHEARTS、2001年にDoubleをオープンし、卓越したデザイン性と確かな技術、似合わせのスペシャリストとして幅広い年代から厚い支持を集める。また、国内外でのセミナーやコンテストの審査員を数多く務め、美容師からも圧倒的な人気を誇る。

Double

Double

原宿、表参道に展開する美容室。長年培って来た確かな技術ときめ細やかな感性で、常に新しいヘアスタイルを求めるお客様に、流行の一歩先を行く髪型を提案しているサロン。


http://www.double.ne.jp/

http://www.double.ne.jp/
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