子供の頃からの夢は30歳で起業すること。その将来の設計図を美容室の経営に決めた。さらに、海外で通用する美容師になりたいという夢を叶えるためにオーストラリアへ渡る。念願かなってシドニーに2店舗、逆輸入で東京に2店舗の全4店舗を展開。40名以上のスタッフが英語対応可能なグローバルサロンを確立。英会話の接客マニュアルの発行を手掛けるなど、メディアでの活動にも積極的に取り組んでいる。
ライター 前田 正明 | カメラ 藤村 徹 | 配信日 2016.8.4
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「30歳で美容室経営」を目標に掲げる
美容師になったきっかけを教えていただけますか?
高校2年生の時に自分のヘアスタイルに興味を持ち始めたのがきっかけです。ヘアワックスを使った友人のスタイルに刺激を受けたり、1人だけ美容室に通っていた友人に誘われて一緒について行きおしゃれに関心を持ち始めました。それまで床屋に通っていた私は美容師のかっこよさに憧れて一瞬で魅力を感じました。子供の頃から父に、「10年後はどうなっていたい?5年後は?3年後は?」と毎年のように聞かれていて、期限を決めて具体的に目標を立てるように言われていました。常に先々を見て目標を立てるクセがついたおかげで、いつからか30歳で起業したいという将来の設計図を描き始めました。どんなビジネスをやるにせよ、経理の勉強が必要だと思い高校時代に独学で簿記2級を取得しました。さらに、興味のあった美容の仕事を肌で感じたかったので、美容室でアルバイトをしよう!と決意。どうやって探したかと言うと、電話帳を出してきて「ア」から順に美容室に電話をして、無償でいいからアルバイトをさせてほしいとお願いをしたんです。そうして雇ってもらったサロンは、高校2年生から専門学校を卒業するまでお世話になりました。実際に働き始めてからもっと美容師という仕事に魅力を感じ、30歳での起業は美容室にしようと決めました。実はそのサロンでは高校時代にシャンプーやワインディングまで教えていただき、美容学校に入学した時にはすでに国家試験の課題タイムに入っていました(笑)。
新人時代からの夢は「世界で通用する美容師になりたい!」
美容学校時代に考えていたことや目指していたことはなんですか?
入学当初から国家試験に必要な技術をマスターしていたので、授業では先生と一緒に他の生徒を教えたりしていました。当時、専門学校時代に配布された業界誌のTOMOTOMOを毎月読んでいたのですが、その最後のページに協力サロンリストが掲載されていて、就職をする時は掲載回数の多いサロンの面接を受けようと考えていました。実際にサロンを探す時期がきて、掲載回数の多かった数サロンの面接日を調べたところ、一番早かったのがPHASEだったんです。面接の応募が約500人もいて合格者はわずか5人。そのうちの男性は私1人でした。面接の時にどんな美容師になりたいかを聞かれて、「世界で通用する美容師になりたいです」とハッキリと答えました。実は、専門学校時代から先生に海外に行きたいと相談をしていたのですが、当時はまだインターン制度があったので、まずは日本で美容師免許を取得した方がいいとアドバイスをもらい、日本で就職をしてから海外を目指すプランに決めました。
入社後1年で先輩を頼り新サロンのオープニングスタッフとして参加
PHASEに入社して感じたことや新人時代に考えていたことはなんですか?
国家試験時には会場で一番早く課題を終えたりしていたので、自分ではかなりできると自信を持っていたんですよね。ところが、実際に入社するとレベルの高さに驚かされて小さなプライドが折れました。当時はカリスマ美容師ブームの頃で、PHASEはすごい美容師さんばかりでした。自分は井の中の蛙だった事に気付き、それ以来、一生懸命にトレーニングを積みました。そんな日々の中、実はある先輩スタッフが独立するので店長として一緒にやらないかと誘われたんです。私はまだスタイリストにもなっていない1年目でしたが、そこで同時にデビューを兼ねてのお話でした。会社にはきちんと話をし、先輩を頼って原宿の新しいサロンへ移りました。当初は2人でスタートしましたが、数年で7名までにもなりました。最初、自分にはお客様がいなかったので、モデルハントでお客様を探し、その方々にリピートしていただけるように努めました。新人の頃はカットしながらも自分の技術に疑心暗鬼なところがあり、今の若いスタッフから相談を受ける度に、常に緊張しながら接客していた頃の自分を思い出しますね。そのサロンでは約4年勤めて、兼ねてからの希望だった海外へ行こうと思いオーストラリアに渡りました。
海外で成功して「逆輸入」の形で日本に出店しようとオーストラリアへ
オーストラリアに行こうと決意した理由などを教えてください。
PHASEに入社した当初はサロンのクオリティの高さに驚き、将来的にサロンの看板で有名になれても個人名で知名度を上げるのは難しいと思ったんです。そこで考えたのは、「クオリティよりもオリジナリティを追求しよう」という発想でした。さらに海外での活躍を夢見ていた私は、外国で成功をおさめて「逆輸入」で勝負してみようと考えたんです。ロンドンやニューヨークはすでに美容界でも注目のエリアで、1からスタートする意味でオーストラリアを選びました。実はその前に、英会話もできないのにハワイのサロンで勤めたいと思い立ち、数日でしたが現地で就職活動をして、あるサロンから内定をもらいました。ところが同じ日に、これからシドニーに移動してサロンの出店を予定している別の日本人オーナーさんと偶然に知り合い熱心に誘われたんです。その方の話では、ハワイは観光地化しているのでビジネスは難しく、常夏でヘアスタイルを変えるようなトレンドもないということでした。私は日本と同じように四季があり日本人が多く住む都市を希望していましたので、逆輸入をするなら美容業界的にも成長が期待でき、ビザも取得しやすいオーストラリアがいいと思いその方を頼って行こうと決めました。
スポンサーのバックアップでなんとか出店を実現したが船出は難航を極める
オーストラリアに渡って苦心したことやサロンオープンに至る経緯を教えてください。
日本に帰国してからも、その方から候補の物件が2軒あると熱心にメールをいただき、公休を取って初めてシドニーに行きました。1軒目は新築のショッピングセンター内にある最上階でガラス張りのフロア、もう1つはヘリテージの築100年以上も経つ3フロアある小さなビルでした。実はそのオーナーには日本人のスポンサーがいて、相談した結果、ヘリテージの路面店に出店することになりました。今後の美容師人生を大きく左右する、失敗が許されない状況の中で意を決して原宿のサロンを退職してオーストラリアへ渡り、オープンするまでは面貸しで別のサロンで仕事をしながらなんとか食いつないでいました。ところが、一向に内装工事が進まず、スポンサーからも具体的なオープン日を伝えられること無くさらに数ヶ月経過。遂に日本人オーナーはしびれを切らして別のスポンサーを探し、もう1つの候補だった新築のショッピングセンター内にサロンを出店してしまったんです。ヘリテージの路面店は、すでに5年間の賃貸契約がなされており、スポンサーの方からきちんとオープンできるように出資をするのでオーナーとしてやってみないかと言われました。契約が残っている約4年間で工事費用を返済し、その後は経営権利を譲るというお話でした。私は初めての経験だったので、1年間だけ様子を見させてもらって売上が順調に伸びたら継続するという約束で日本語の契約書を交わしました。それが、シドニーで代表職としてスタートした最初のサロンです。
通訳を介しながらの接客と口コミで増客を叶えるも予期せぬ契約反故でふりだしに
オーストラリアでサロンをオープンした後はどのような展開で経営を進めたんですか?
オープン当初はあまり英語が話せなかったので、秘書を雇って隣で訳してもらいながら接客をしました。英語の習得が必要な事も分かっていましたが、当時はとにかく忙しかった上に何としても結果を残さなければいけない状況だったので、営業を優先し、そのような接客スタイルにせざるを得ませんでした。そんな状態が2年間も続く中、次第に口コミでお客様が大勢来店されるようになりました。日本の美容室で行われる「おもてなし」の接客がオーストラリアでは珍しく、有難いことに高い評価をいただけたようです。日本の一等地である南青山と原宿のサロンで勤めていたというバックボーンの影響もあってか、現地の方だけでなく中国人や日本人も大勢来られました。お陰様で返済も順調に進み、契約の4年が経とうとする数ヶ月前に、スポンサーの方と約束をしていたビジネス譲渡について最終確認をしました。しかし、返って来た返答は「そんな約束は覚えていない」の一点張り。外国なのに正式な形で英語の契約書を作成していなかったので、日本語の契約書だけでは無効だと通告されました。どうやら、売上が順調だったので手放したくなく、スタッフを含めて別の投資家に譲渡しようと計画していたみたいです。抗議もしましたが、結局私は1人だけ追い出される形で顧客リストも全て奪われ、途方に暮れていました。正直、このまま日本へ帰国しようかとも考えましたが、自分に落ち度が無いにも関わらず、このまま引き下がるのは負けを認めることになります。裁判で闘う方法もありましたが、私の目的は美容師として海外で活躍し、日本に逆輸入することです。裁判に労力を費やすよりもなんとか自分だけの力で完全独立して、尚且つ成功してやると決心をした瞬間でした。オーストラリアでは物件の契約に必ず弁護士が必要なので、言葉の問題もあり数少ない日本人弁護士に今後の相談をしました。
「Ryoがプロデュースするサロン」として多くのファンがオープン時から来店
オーストラリアで1人になった後、どのようにして起死回生を図ったんですか?
物件を探さなければと思っていた矢先に、顧問弁護士から撤退しそうなサロンがあるけど興味があるかと打診されました。詳しい話を聞くと、そこは新築のショッピングセンター内にある最上階のサロン。そう、あの時に別れた日本人オーナーさんのサロンだったんです。経営状況を聞くと1ヶ月の売上が約30万円ほどで、経営不振で行き詰まっていました。実はその弁護士は、そのサロンの賃貸契約を担当していたのでいち早く情報を得ることができました。個人でシティのど真ん中にあるショッピングセンターに出店するのは至難ですが、シドニーで4年間の実績をなんとか評価してもらえないかとビル側との交渉の末に、残っていた賃貸契約だけをキャッシュで一括清算する形で出店が決まりました。この絶妙なタイミングは本当に奇跡的だったと今でも思います。これでスポンサーをつけずに完全独立となり、追い出されてから約2ヶ月という短い期間でSHINKAの誕生となりました。それが28歳の時です。オープン時は私とスタイリストとレセプショニストを入れて3人でスタートしました。オーストラリアではレセプショニストを雇っているサロンは稀ですが、私はお客様にサロンで気持ち良く過ごしていただくには、レセプショニストは必須だと考えています。その上、オーストラリアはサロン名より個人が評価される国なので、口コミによる反響が大きく、「Ryoがプロデュースするサロン」として最初の月から200万円以上の売上をあげることができました。私を認めてくださったお客様が大勢いたことに感謝しました。実は、渡豪して間も無く面貸しでサロンワークをしていた頃に、新しくシドニーの情報誌を発行するので美容ページを担当してほしいとの依頼があったんです。私は「もし表紙モデルを担当させてもらえるなら引き受けます」と答えたところ、表紙を担当させてもらえる事になりました。創刊から1度も休むことなく14年間連続で表紙を飾っています。その効果もあってシドニーで個人の知名度が上がったんだと思います。
日本の気遣いやおもてなしの心を提供するためにスタッフは全員日本人を採用
自分のサロンをオープンしてからの展開やシステムをどのように確立しましたか?
サロンをオープンして2年目の頃でした。自分のサロンがあるショッピングセンターから徒歩1分の場所にある約60坪の物件にトータルビューティーサロンが新規オープンしたんです。道路に面したそのサロンに脅威を感じていたんですが、様子を見ていたら、3ヶ月ほどで貸し物件になっていました。私は急遽不動産とコンタクトを取り事情を聞いたところ、そのサロンは経営がうまくいかず、逃げてしまったとか…。翌日には内覧させてもらい、すぐに契約しました。内装を全て壊してから新規で許可を申請してヘアサロンとしてオープンまでに2ヶ月以上かかりましたが、無事に2009年12月に2店舗目をオープン出来ました。当初、1店舗目で軌道に乗った頃に東京へ逆輸入をしようか考えましたが、シドニーで2店舗を展開している日本人がいないということだったので、それを達成してから日本へ進出しようと考えました。オーストラリアのスタッフは2店舗とも全員日本人です。これには理由があり、日本人の気遣いやおもてなしの接客をご提供したかったから。私自身、PHASEに入社した新人時代にお客様だけでなく、先輩や他のスタッフに対する気遣いなどで評価された経験があります。オーストラリアでは、レセプショニストがいることやカバンを預かる風習がなかったので、そんな日本のシステムをしっかりと導入するために日本人スタッフを採用しました。技術は出来て当たり前ですが、施術中や接客中にも気遣いの心を取り入れたことが海外でも高評価に繋がったと思います。
東京で外国人が大勢いる場所をターゲットに六本木で念願の出店
日本に出店をした経緯や苦心したことなどを教えていただけますか?
シドニーでの私はお客様が第一でスタッフは二の次だと考えて厳しく接していました。ダッカール1つ落としただけで怒鳴っていましたから。しかし、彼らとミーティングを重ねた結果、スタッフが働きやすい環境を整えることが最も重要だと気づいたんです。それを助言してくれたのが信頼を置けるスタッフ達でした。徐々にですが、フロアの雰囲気や福利厚生を強化していくことでスタッフの定着が良くなりお店の売上げも急増しました。この方針の変化が経営者になってからの大きな分岐点になったと思います。オーストラリアは彼らに任せられると思い、日本に一時帰国して東京での出店を計画しました。最初にオープンした場所は六本木です。逆輸入を考えた場合、表参道で出店するにはコンセプトが違う。東京で国際色豊かなエリアといえばやはり六本木や麻布あたりでした。さらに、外国人に的を絞って集客するにはやはり大使館周辺がいいだろうという結論に至りました。そしてビザの関係でオーストラリアから帰国してきたスタッフの受け口になるようにと、顧客が全くいないながらにも、広めの物件をリサーチしました。構想を練ってから出店まで苦難の連続でしたが、2012年、ついに逆輸入という形で六本木に日本一号店をオープン。全てのお客様に最高のおもてなしを提供したいという想いから、日本では敢えてスタイリストではなく、フロアマネージャーとしてサロンで働くスタンスをとりました。同時期に各国の大使館を回りスタッフ全員が英語で接客できるサロンを逆輸入でオープンしたことをPRするなど積極的に動きました。外国人に特化したサロンとして、電話は日本語用と英語用の2回線を引いて営業しています。徐々に評価と交流が深まり、今では大使館のパーティーなどにも招待していただけるようにもなりました。
インターネットの集客サイトで初年度から4年連続でベスト10にランクイン
日本に出店して集客や戦略など具体的に実践したことはなんですか?
オープン当初、顧客ゼロでスタートしたことや、マーケティングは外国人だけに絞ったことで、最初の月の売上は30万円にも達しませんでした。当然ながら、六本木のサロン経営が思わしくなかったので、並行して日本人の集客にも力を注ぐことにしました。そこで注目したのがインターネットの集客サイトです。私が青山にいた10年前には考えられないくらい有名サロンがクーポンマガジンなどに掲載されていました。これには驚きましたね。そこで、数ある媒体の中から厳選して実力で勝負できるサイトに掲載し、その結果2012年の口コミランキングで初年度に関東で5位、その後4年連続でベスト10以内にランクインしたんです。その理由を分析すると、スキルだけではなくおもてなしが重要な要素だったんです。業界でもおもてなしに関する講師の機会をいただけるなど、サービスに関しては絶対の自信を持っていましたので、口コミが広がるまでに時間はかかりませんでした。そして、六本木のサロンをオープンして2年後の事です。実は、2012年に帰国して最初に目星をつけていた物件が2件あったのですが、1件はすでに仮抑えになっていて断念した経緯があるんです。ある日偶然にもスタッフがその店舗の前を歩くと、そこが空き物件になった直後でした。翌日すぐに不動産屋さんに問い合わせて出店を即決。それが2店舗目となる今の麻布十番のサロンです。この場所は、オーストラリア大使館まで徒歩で数分の場所です。小さなビル一棟なのですが、この物件は計画的にオープンしたのではなく、完全に偶然の出会いで契約したので、自らプレイヤーに戻りオープン当初は1人で3フロアを担当しました。シドニーに行く際には数週間閉店しながらの経営は正直すごく無謀なやり方だと自分でも思いましたが、その時期を乗り越えられた今となってはちょっとした自信にもなっています(笑)。オーストラリアのサロンも東京のサロンも、良い条件・タイミングで希望する物件を契約でき、不動産に関しては本当に運命的なものを感じています。
日曜日の定休日や健康診断を導入するなどスタッフ待遇を整えた
逆輸入のサロンとはどういうシステムを採用したんですか?
日本に逆輸入で出店するにあたり、3つのコンセプトを定めました。1つ目は、「外国人が気軽に来店できるサロン」。2つ目は、「海外から帰国した美容師が英語を生かして働けるサロン」。最後の3つ目は、「海外で活躍したいという美容師をグローバルに育てるサロン」です。日本国内の他サロンと同じシステムではオリジナリティがないので、逆輸入で勝負するために海外と同じようなスタッフ待遇と福利厚生を取り入れました。その例が日曜日の定休日や毎年の健康診断の導入、そしてシドニー本社への研修制度です。スタッフが日本とオーストラリアを行き来できるように環境や体制を強化しています。オーストラリアには社宅を用意し、ビザや航空券などの費用もすべて会社が負担します。もちろん有給扱いなので、研修中のお給料も保証されます。入社後、すぐにオーストラリアのサロンで働けるよう必要な環境を用意する事で、スタッフのご家族にも安心していただけています。2カ国のサロンで働けることでスタッフの定着率も非常に良く、英語を話しながらみんな活き活きと働いてくれています。それが、結果的にサロンの向上にもつながり、お客様にも賛同を得ています。グローバルサロンを見据えて東京にオープンしたSHINKAは4年経った現在、日本人のお客様も増えていますが、外国人のお客様比率は40%前後をキープしています。
美容界のグローバル化を図るため英会話の接客マニュアルを発行
英会話による接客本を発行されたそうですがその内容を教えてください。
オーストラリアに本社を残し、スタッフ全員が英会話のできるサロンを逆輸入したことで業界誌から取材を受け、それをきっかけに接客のおもてなしと英会話の連載を担当させて頂いております。そして帰国後に東京オリンピックが決まり、今後はもっと美容業界がグローバルに対応していかなければならないと安易に予測されます。それを何か形に出来ないかとミーティングを重ね、タカラベルモントさんのご協力も頂き、美容師のサロン英会話に特化した接客マニュアルの単行本を発行することになりました。この本のコンセプトは、英語に慣れていない人に対して、いかに抵抗なく実際に活用していただけるかという部分に主眼を置いています。私はオーストラリアに渡ってしばらく英語が話せなったので、指さしで使えるようなマニュアルがあればいいのにと常々思っていました。美容室に特化しているので、これ1冊あれば不意に外国人のお客様が来られても英語で接客できる内容になっています。今では美容専門学校からもお問い合わせをいただいています。日本人以外の方をカットする喜びを得られる為に活用して頂けたら本望です。今後の展開としては、シドニーに3店舗目を出店します。しかも、現在の2店舗から徒歩1分以内の場所で9月にオープン予定です。これからもオリジナリティを追求してグローバルな展開をしていきたいですね。最後に、この業界を担う若い人たちに対して、夢を持って進んでほしいと思います。夢を持つ大切さ、叶える難しさ、失敗と経験、そして達成した時の感動を知っていただきたいからです。誰でもチャンスは必ずやってきます。待つだけではなく自らそれをつかんでください。東京オリンピックが開催される頃は、多くの美容師がグローバルに活躍している業界になってほしい。私はそう願っています。
Ryo(リョウ)
SHINKA Group Pty Ltd 代表取締役。埼玉県出身。東京総合美容専門学校卒業。南青山のPHASEに入社。その後、原宿のサロンで店長を経験後に24歳で渡豪。28歳でシドニーにSHINKAを設立し完全独立。2012年に33歳で日本にSHINKAを逆輸入。現在はオーストラリアに本社を構えてシドニーに2店舗、東京に2店舗の全4店舗を展開。経営マネージメント、サロンワーク、外部講習、雑誌撮影など多彩に活動中。オーストラリア発行の情報誌の表紙モデルを14年連続で担当している。シドニー3店舗目が近日オープン予定。
SHINKA Hair Design
SHINKAはスタッフ全員、英語が話せる日本でも数少ないサロンとして東京にオープンしました。今後、日本とオーストラリアで美容師が行き来できる環境を作り、世界にも日本の素晴らしい美容技術を広げたいという想い、逆に海外で身につけた技術や語学を日本で活用してもらいたいという想いで展開しています。
シリーズ:この人から学ぶ、成功の秘訣「TBMG」
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木村 和彦さん(株式会社 友美) | この人から学ぶ成功の秘訣 TBMG
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本田 真一さん (HONDA AVEDA hair&spa) | この人から学ぶ成功の秘訣 TBMG
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