ライター 前田正明 | カメラ 更科智子 | 配信日 2010.8.5
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子供の頃に見たヘアショーに衝撃と憧れの念を抱く
私の両親は埼玉県で理容室を経営していたので、小さい頃から私も家業を継ぐつもりでいました。子供の頃、母親に連れられて、今でも大変お世話になっています田中秀一さん(サントノーレ代表)のヘアショーに行った時のことです。初めて見た華やかでカッコいいステージに魅了され、衝撃を受けました。子供心に「自分も将来はこうなるんだ」と決意し、田中先生が憧れの存在になりました。その方は理容と美容の両方の資格を持っていると聞かされ、自分も田中先生のようになるために両方の資格を持ちたいと思いました。その後、高校を卒業してから東京理容専修学校に入学。最初は理容師の資格を取り、家業を継ぐためにまず理容を極めようと考えました。
理容学校時代のボランティア・カットが大きな経験に
理容学校に入学すると、当時は私と同じように跡継ぎの人がほとんどでした。学生時代はシェービングの授業が楽しみで、自分がモデルになる時は気持ちよくてずっと眠っていました(笑)。それと、ボランティア・カットの授業もあり、理容学校時代からお客さまの髪に触れることができました。それが、今となってはいい経験だったと思います。当時の国家試験は人頭モデルでカットをしなければいけなかったので、その対策にもなりました。国家試験と言えば、試験当日会場では仕込みをする時間も場所もありませんから、事前にモデルの髪にポマードをたっぷりつけて準備し、申し訳ないと思いながら電車で移動したことを覚えています(笑)。当時の理美容学校は1年制で、インターン制度がありました。卒業してからは、しっかりと教育をしてくれるという両親の勧めで、知り合いの理容室に勤めました。
美容に傾いたのは技術者としてすべてをやりたかったから
そのサロンは地域密着型で、実家と同じような理容室です。私は当初、憧れていた田中先生のサロンに勤めたいと思っていましたが、そこは半数以上が女性客のユニセックスサロン。いずれ家業を継いでほしいという両親の希望で地元の理容室を選びました。でも、3年くらい勤めていくうちに気持ちは美容へと傾いていきました。私は技術者として、男性だけではなく女性を含めたすべてのお客さまにたずさわりたいと思うようになり、男性客だけの理容に物足りなさを感じていたんです。その時、同い年で知り合いだった理容師さんが美容の世界に行くという話を聞いて刺激を受けました。それが、TAYAのMASA君です。努力家の彼ならきっと成功すると思っていたし、自分もいずれは美容の世界に行きたいと思いました。でも、理容師である親をどのように説得すればいいのか悩みました。
人より何倍も努力をすれば必ず乗り越えられる
最初の理容室では5年間勤めさせて頂きました。幼い頃から両親の仕事を見たり簡単な事を手伝ったりしていた事もあり、ある程度の仕事の流れなどは分かり、スムーズに技術を覚える事ができました。理容で教えて頂いた事は今でも本当に役に立っているんです。理容師の免許を持っていなかったら、今の自分はなかったんじゃないかと思います。そのくらい理容師と美容師の免許を両方取得した事はとても良かったと思っています。しかし、理容から美容への転身は不安も大きかったです。当時自分は25歳。美容師としてはかなり遅れをとっています。この5年間の遅れをどう埋めていくかをすごく考えました。とにかくやるしかないと思いました。人よりも何倍もの努力をすれば、この5年間の遅れは必ず取り戻せるといつも自分に言い聞かせてました。美容の世界へ行く事を真剣に考え始めていたその頃から、美容に関して少しでも勉強しておこうと、日々、美容の技術セミナーに参加したり、業界誌を欠かさず読んだりしていました。そんなある日、業界誌を見ていてある作品に衝撃を受けたんです。
業界誌に載った植村さんの作品を見て衝撃を受けた
それは、DADA CuBiCの植村隆博さんの作品でした。パラパラとページをめくって見ていたのですが、植村さんのボブの作品が載ったページで手が止まったんです。それは今までに見たことのない美しいカットラインでした。ちょうど理容から美容へのシフトを考え色々悩んでいた頃で、その作品を見た瞬間から植村さんは私の目標であり、憧れの存在となりました。そこで、植村さんに少しでも近づきたいと思い、実際にカットをしてもらおうと当時(12年前)のDADA原宿店に行きました。その時に美容師としての色んな相談に乗って頂きました。美容師としての可能性、将来性、奥深さ、今まで経験してきた海外の事や、実際日本に戻ってきてからの事など、色々なお話をした事を覚えています。その時若かったせいもあり、カラーをシルバーグレーにしてもらうようお願いしました。厄介なお客だったに違いありません(笑)。でも思い通りの色に仕上げてくれた事に感動し、帰りの電車の中で一流美容師さんはスゴイ!とずっと考えていました。そして、『よし、決まった!行くぞ!』と美容師への転身の最終決意が固まりました。DADA CuBiCにはその後もずっと通わせて頂いていて、今でもカットは植村さんに、パーマはカラーリストの吉村さんにお願いしています。植村さんは私にとって、憧れの存在であり、とても尊敬できる方。私の美容師人生のキーパーソンです。
やっと美容の世界に来れたんだという嬉しさを実感
その後両親やサロンのオーナーに話をして、自分のやりたい世界で頑張りたいと説得をし、美容の世界に進みました。美容師として遅れを取っている私にとって練習する環境が一番大切だと思い、どんなに遅くなっても通勤できる環境を求めていました。都内での就職を強く希望していたのですが、最終的に独立は地元埼玉でと思っていたので、将来の事も考え悩んだ結果、実家から自転車で通えて自分が納得するまで練習ができる環境を優先し、埼玉県の大手美容室に入社しました。美容師の免許は、サロンに勤めながら通信課程で取得しました。初めの頃は、女性の長い髪を扱う事にすごく戸惑いがありました。なにしろ今まで肩より長いお客様がいなかったので、髪の毛を触るだけでドキドキしていました。でも何もかもがすごく新鮮でした。自分が思い描いていたところに来れた嬉しさがとても大きかった事を今でも鮮明に覚えています。嬉しさのあまりお客様としゃべり過ぎて注意を受けた事もありました(笑)。毎日お店に行く事が嬉しくて、25歳にして一から働かせて頂いたことにも日々感謝していました。だから、どんなに遅くなろうが、どんなに朝早く出勤しようがまったく苦には感じませんでした。
たくさんの練習と出会いが今の宝物
美容の技術で一番苦労したのはやはりパーマの技術でした。周りのスタッフたちは美容学校で学んでいたのでとても上手でしたが、理容師だった私はワインディングの経験が少なく、一から練習をしました。サロンワークをしながらのワインディング練習はかなりハードでした。夜中3時頃までずっと巻いていた日もよくありましたよ。オールパーパスが巻けるようにならないと国家試験にも合格しませんから、かなり必死でしたね。また自分は美容一年目が25歳でしたから、年下のスタッフもほとんどが先輩です。でも自分より経験もあるし、私は何も出来ませんでしたから、年下のスタッフに対してもすごく尊敬していました。中途半端が嫌いな私は、アシスタントの時に学ばなければいけない事は、しっかりと覚えてきました。そうしないと自分が後輩に教える立場になった時、しっかりした技術が教えられませんから。また独立した時にも自分がたくさんの事を学んでいれば、たくさん教えてあげることができます。当時からそんな思いで日々練習をしていました。アシスタント時代に色々な事を教えて下さる先輩がいてくれたお陰で、今の自分がいるんだとすごく実感しています。たくさんの出会いは、私の宝物になっています。
目標通り10年間のサロン勤務を経て独立・出店へ
そのサロンでは10年間を目標に勤め、最終的に独立を考えていました。実は最初の面接で将来の希望を伝えていましたが、10年間勤めている間に幹部という道のお話もいただいていました。有難いお話をだったのですが、どうしても自分の気持ちの中で独立の意志が強かったので、退社という選択肢を選ばせていただきました。自分のわがままを聞いてくださり、10年間も勤めさせていただいた事は本当に感謝をしています。この10年間は本当に貴重な時間であり、この10年の経験が無かったら、今独立なんて出来ていなかったと思います。独立の際には、実家に戻るという選択肢もありましたが、美容師としての10年間の経験や自分自身への挑戦としても、自分でお店を出店する事に決めました。実家の理容室を継ぐ形にはなりませんでしたが、自分がそこで頑張っていけば両親も喜んでくれるんじゃないかなと。それが自分なりの恩返しになるかなぁって思っています。そして2009年6月退社してすぐに、導かれたかのように偶然通りかかった時に今のお店の場所を見付け、『ここだ!』と思い、即決めてしまいました。でも物件探しが一番苦労しましたね。1年半前から探していたのですが、自分の思う物件が全然見つからず、正直少し焦っていましたから。その後、2009年11月18日に念願の自分のサロンをオープンする事が出来ました。サロンのコンセプトは『癒しの空間』。バリの高級リゾートをモチーフにしました。内装やインテリアにもかなりこだわり、自分で設計図を考えたりもしました。
スタッフ教育、どんな事をしていますか?
スタッフには気軽に声をかけてあげること、それが私流のコミュニケーション術です。スタッフ教育に関して私が気をつけていることは、どんな些細なことでも気にかけてあげることです。例えば、洋服や身につけているものを褒めてあげたり、ちょっとした変化に気づいてあげてそれを言うようにしています。それがコミュニケーションを図る上で大切なことだと思います。私も、彼らが何を考えて仕事に取り組んでいるのか、あるいは何か悩み事がないか気になりますから。私自身、まだ経営者として1年生なので、そんなところから密に接しながら厳しく指導していこうと考えています。
周りで支えてくれる人たちへの感謝を忘れずに
無事にサロンのオープンを迎えることができたのも、自分一人の力ではありません。たくさんの人たちの協力があってこそできた事です。人は決して自分一人の力で生きているのではないと思います。常に誰かの支えがあり、今の自分があるという事を忘れてはいけません。そのことを後輩たちにも伝えていきたいし、そういう風に思ってくれる仲間をつくっていきたいです。 BRILLERもまだ一年目です。まだまだ課題はたくさんありますし、自分も経営者一年生。順調にいくとは思っていません。色々な事があるからこそたくさん考えるし、それを乗り越えた時に嬉しさがあるんだと思います。だから、どんなことにも負けずに自分やスタッフを信じ、前を向いて日々努力していきます。最後に、この業界で頑張っている若い世代の理容師さんや美容師さんに対して、夢を持ち続けて自分を信じ、あきらめないで進んで行ってほしいです。想いが強ければ必ず夢は叶うと思います。しかし、想っているだけでは駄目ですよ!すぐ行動に移す事が大切です。それから、憧れの存在は作るべきだと思います。「あの人みたいになりたい」と想う事も、自分自身のパワーの源になりますよ。信念と目標を曲げずに進んで行ってください。自分もまだまだこれからもっと人生を楽しんでいきたいと思います。一緒に理美容業界を盛り上げていきましょう!ありがとうございました。
安藤 明(アンドウアキラ)
BRILLER代表。埼玉県出身。東京理容専修学校、東萌ビューティーカレッジ(通信課程)卒業。理容師・美容師両方の免許を取得。埼玉県の理容室で5年半勤務。その後、埼玉県の大手美容室で10年間勤務。その間、APPLE INTERNATIONAL BIG CONTESTに出場し、2006年に第1位、2007年に入賞。その後、独立し2009年11月にBRILLER(ブリエ)をオープン。バリのリゾートホテルをイメージし、お客さま一人ひとりにリラックスして頂けるように癒しをテーマに展開。サロン名の由来は『輝く』で、たくさんの人をいつまでも輝かせ、美容師の自分たちもいつまでも輝いていくという想いを込めている。
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