ライター 前田正明 | カメラ 奥村浩毅 | 配信日 2009.1.8
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おしゃれになった先輩を見て美容師に憧れる
美容師になろうと思ったきっかけは、高校時代の先輩の影響です。その人が美容学校に入学して、ヘアやファッションがだんだんカッコよくなっていく姿を見て、自分も美容師に憧れたのが最初ですね。当時は、不良っぽいファッションが流行していましたが、その人がまったく違うイメージに変わったので驚きました。それ以来、『ヘアが変わるだけで、人間も変わるからおもしろいよ』って話を聞いて、私も美容師になりたいと思い始めました。それまで、洋服やバイクに興味があったのが、まわりの人のヘアスタイルを意識し始めましたね。ただ、高校3年の夏までは自動車関係の技術を学ぶため、大学進学を考えていたんです。(当時は日本にF1がなかったので、)夢はF3のメカニックになることでした。でも、徐々に気持ちが固まってきて、美容学校に願書を提出したのは、高校の卒業式直前。だから、美容師になろうと決心したのは急展開でしたね。母親も、手に職をつけるという意味で賛成してくれました。
人間として大切な礼儀や作法を学んだ学生時代
美容学校に入学するとクラスには跡継ぎの人が多く、男子生徒は全体の1/3もいないくらい少なかったです。当時の美容界は、まだ男性美容師が多くはない女性社会の時代でした。私が入学した美容学校はお寺が経営していた宗教法人だったので、すごく厳しい学校でした。他校は私服でしたが、そこはネクタイとブレザーを着用した制服があり、ヘアもカラーやパーマをかけたりするのは禁止でした。それは、美容師である前に、人間としての礼儀や躾を重んじていたからです。派手なスタイルは美容師になってからいくらでもやれる。その前に、学生時代にきちんとした人間に育てることをモットーにしていた学校でした。だから、身だしなみや掃除に関して徹底した教育を受けましたね。担任の先生にはかなりお世話になったし、今思えばそんな厳しい指導のお陰で、プロの美容師として接客業やサービス業の大切さを学んだと思います。
やればできると慢心して本気モードになれなかった
授業に関して、最初はワインディングのレッスンにも励んでいたんですが、進行が早かったので一日休むと次の日についていけなかったことを覚えています。まわりの友だちに遅れた部分を聞こうとしても、その子も必死だから教えてもらえず、見よう見まねでロッドを巻いた記憶があります(笑)。当時は、アルバイトをしながら学校に通っていたので、先輩たちと夜遅くまで遊んだり、自由になった気分でさぼりグセがついて授業がおろそかになり、だんだんつまらなくなってしまいました。学校は厳しかったので、『必要以上に教えないから、自分で遅れた分を取り戻しなさい』という教え。学校が楽しくなくて途中で辞めようと考えたこともありましたが、自分だけできない悔しさもあり、何とか最後まで続けて卒業しました。当時は1年間のインターン制度があったので、入店したサロンでは修了書をもらえるように必死でしたね。それがないと、国家試験の受験資格が与えられない時代でしたから。でも、美容学校で学んだことと、現場のサロンとではギャップがあり、一生懸命についていった記憶があります。ただその頃は、自分の中ではまだ『本気モード』になっていなかったんです。
貯金をするため1年で退職して他業種でアルバイト
私がインターン生として入社したサロンは、カットが上手い美容室でした。でも、やっと卒業できた程度で、まだ『本気モード』になっていなかったので技術的なことはさっぱり・・・。だから、シャンプーに逃げ場を作り、パーマのヘルプとかは避けていました。失敗するとさりげなく手をたたかれたりしましたから、自分ができないことを悟られるのがいやで(笑)。シャンプーは気持ちよくする自信があったので、まったく苦にはならなかったです。逆に、一生シャンプーマンでいいかなと思ったくらいですから(笑)。仕事が終わったら、どこかへ遊びに行きたいと思っていたくらい、当時はまだまだ甘い考えでいました。そして、そのサロンは1年で辞めて、もっといい給料をもらうためにフリーターとして他業種のアルバイトをしたんです。1年でまた美容師に戻ろうと考えていましたから、違う世界を勉強するのもいいかなと思って。それと、お金を貯めていい車にも乗りたかったので(笑)。いろんなアルバイトをしましたよ。その1年間は私の人生で中身の濃い、いい勉強になりました。
先を越された友人に刺激を受けてようやく本気モードに
それから1年が経ってようやく美容師に戻ろうかと考えていた頃、美容学校時代の友人と偶然に街中で再会したんです。彼はおしゃれになっていて、美容師の顔つきをしていました。そこで彼に、今何をしているのか尋ねたら、『もう2年目に入ってカットの練習をしている』って言われたんです。そのひと言を聞いて、『本気モード』になりましたね。えっ、もうカットをしているのかって。彼はもうすぐスタイリストとしてデビューもする予定でした。そんなことを言われて、今まで自分は2年間で何をしていたのかと愕然とし、大きく差を開けられた気分になったんです。それから1ヶ月間でサロンを探したところ、広島の繁華街で1週間後にオープンするサロンがあり、スタッフをあと1人だけ募集してるところでした。店長やチーフはいい人で、何か運命的なものを感じ、そのサロンに入社しました。そこで、私の新しい美容人生がスタートしたんです。
憧れの美容師から影響を受けてカットのマスターに励む
そのサロンで、私は美容師としての基盤を学びました。実は、インターン生の頃に勤めていたサロンは、サスーンカットを全面に出した美容室でした。最初に渡されたのが、4.5インチのミニシザーズ。すごいマニュアルがあり、今思えばしっかり勉強しておけばよかったと後悔していますが、何分『本気モード』じゃなかったんで何も覚えていませんでした(笑)。2軒目のサロンでは、当時の今井英夫さんが考案したビッグシザーズが話題になった影響で、ロングシザーズを渡されてカットの練習をしました。それが、私にとって衝撃的な経験だったんです。それまで、小さなハサミでちょこちょこカットしていたのが、ロングシザーズでバシバシッとカットすることに驚きを感じました。その頃、憧れていたのは、当時SHIMAにいた八木岡聡さんとPEEK-A-BOOの伊東秀彦さん。あの頃、お二人は業界誌によく登場していて、その技術解説を見ながらカットの勉強をしていました。伊東さんのシャープなラインと八木岡さんのソフトな質感に見とれていましたね。そのサロンでは2年間お世話になりました。いつかは広島のおしゃれなエリアで自分のサロンをオープンすることが夢でしたから、その当時から独立は意識していました。ところが実は、その後に東京のサロンへ行くことになるんです。
雑誌の影響で流行を発信する側になりたいと思う
広島から東京へ行こうと思ったきっかけは、業界誌を見て、ある疑問があったからです。それは、カットの技術解説を見ていて、肝心な部分が紹介されていなかったんですね。一番知りたいシーンが載っていないんですよ(笑)。それを確認したかったからです。多分、企業秘密で雑誌では明かすことができないシークレットだったんでしょう。それと、当時の『anan』に刺激を受けて、自分も流行を発信する側になりたいと思い始めたのも理由の一つです。今ほど女性雑誌が多くない時代に、先端を行くおしゃれなスタイルが紹介されていてそれに感化されました。広島のサロンにいた頃は頑張った甲斐があり、1年間で多くのお客さまから指名をいただけるまでになりました。いろんな技術もマスターできたし、ここで吸収すべきことは全て吸収できたかなとも感じていたんです。そこで店長に相談したら、『自分の夢を大切にしろ、今やらないと後で後悔する。もし、ダメだったらいつでも帰ってくればいいから』と、後押ししてくれたんですね。その言葉で上京する決心がつきました。
苦労して入社した東京のサロンで店長に就任
それから1ヶ月だけ有余をもらい、東京でサロンを探そうと思っていた頃、僕を本気モードにさせた同期は広島で独立すると言っていました。23才でですよ。自分はこれから東京に進出しようと思っていたのに、彼はもう独立です・・!それで、オープンするサロンを見せてもらい、それから2日後に東京に行きました。東京では原宿・青山界隈のサロンに勤めたかったんですが、年齢の関係でどこも採用してもらえなかったんです。そこで、すでに上京していた先輩に応援してもらいながら、最初に雇ってもらったのがズッソでした。その当時、横手康弘さんが代表をしていて、ヘアメイク部門もあるおしゃれと評判の美容室でした。東京に出てきて、最初は高級感のあるモダンな店作りに緊張した記憶があります。そのサロンでは9年間勤めて店長まで任せていただきました。入店当初はシャンプーから始めたので最初は苦労しましたが、11ヶ月でスタイリストになることができました。そして、その後は夢だった雑誌の撮影でも仕事をさせてもらえるようになったんです。
友人のサロンを手伝ったことが大きな経験に
独立に関しては、資金的な面で東京で出店するのは無理だと考えていました。まわりの人たちも、地元に帰って独立した人がほとんどでしたからね。その当時、一緒に勤めていた山下浩二さん(現HEARTS・Double代表)や綾小路竹千代さん(現ACQUA代表)とも、スポンサーを募って共同経営でもしないと無理だよなって話をしていました。それから数年後に、すでに退職していた山下さんから強烈なラブコールを受けて、1年間だけ彼のお店を手伝うことにしました。そこで、サロン運営に関していろんな勉強をさせてもらいました。その経験がなければ広島に帰っていたかもしれません。でも、まわりの友だちがみんな頑張っている姿を見て、お互いに負けられないという刺激を受けていたのは確かですね。そこで、なんとかなりそうだという気になり、青山学院大学の近くにアーティスサロンの1号店をオープンしました。その物件を探す時も、山下さんとバイクで2人乗りして見に行きました(笑)。その場所では約3年開店して、その後原宿にもオープンしました。当時はストリート全盛の時代で、カリスマブームに乗って雑誌でも取り上げてもらいましたから、時代の波に上手く乗れたと思います。
厳しい時ほど大きなチャンス!それをものにして
現在は青山と原宿のサロンを統合する形でこの場所に新しくブリッジをオープンさせ、すでに5年目になります。今後の展開は、原宿界隈にもう1店舗を出店予定です。今までの時代背景を上手くミックスさせた新しいお店を展開したいです。それと同時に、スタッフの採用や教育に関してももっと充実させていきたいです。特に、若い美容師さんには、今がチャンスだから頑張ってほしいですね。 10年後に残る美容師は、わずか2割と聞いています。それほど継続率が低いんですが、私は逆にそれがチャンスだと思います。今では東京も地方も同じ条件です。厳しい現状をピンチと思わず、負けないように自分の信念を強く持って進んでいってほしいと思います。
西本昇司 (ニシモトショウジ)
BRIDGE 代表。広島県出身。広島理容美容専門学校卒業。広島県内で2店舗、東京都内で某有名サロンのディレクターを経て独立。1995年、青山にARTIS SALONをオープン。2003年には原宿にBRIDGEをオープン。現在はサロンワークを中心に、業界誌や一般雑誌のヘアメイク、またセミナーの講師等で活躍中。
※2009年1月8日現在
シリーズ:この人から学ぶ、成功の秘訣「TBMG」
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