ライター 前田正明 | カメラ 神谷 渚 | 配信日 2014.8.7
「絶対にこの人のサロンに勤めるんだ」と決意する
私の実家では祖父母の代から理容室を営んでおり私で三代目になります。祖父から父が家業を引き継ぎ、私が理容師になろうと決心したのは中学生の頃でした。当時は田舎暮らしで職業の選択肢が少ないということもありましたが、一番の理由は父が若い人を育てながらサロンを経営していたことに魅力を感じたからです。幼少の頃からスタッフのお兄ちゃんたちと遊んでもらい、そんな環境で育った私は「理容師っていいな」と素直に思いました。 高校を卒業後には、父と同じように東京で技術を学ぼうと思い東京の理容学校に入学しました。実は、中学の頃から憧れていた人がいたんです。それが、田中トシオ先生です。当時から業界誌を興味深く読んでいた私は、詳しい経歴も知らないまま写真を拝見して「この人に習いたい」と直感で思いました。私はそんなインスピレーションが働くんですよ。だから、理容師になると決断してからは絶対にこの人のサロンに勤めるんだって自分で決めていました。
将来は日本一の理容師になることが新人の頃の夢
専門学校時代は毎日寮に帰ってワインディングやカットの練習をしていました。おかげで学生コンテストのワンレングス部門で優勝しました。その他にもアルバイトや3キロのランニングも毎日欠かさず続けていました。アルバイトをしていた居酒屋で「僕は将来、理容師として日本一になるからその時はご馳走してください」なんて大将に語っていました(笑)。インターン時代は、世界大会のゼネラルコミッショナーを務めていた叔父の紹介で憧れの田中先生のサロンに勤めることができました。同期で入社したスタッフが14人、全体で50人くらいスタッフがいて当時から髪ingの規模は大きかったです。初めて先生にお会いした時はまずオーラのすごさに驚きました。当時は、腕を磨いて将来的には実家へ戻るつもりでいたので、面接の時に「いつか山形に帰って日本チャンピオンになりたいです」って言ったんです。すると先生は「それは難しいよ。チャンピオンになりたいのならうちで頑張りなさい」と言われたことを今でも覚えています。
1年1ヶ月後にデビューし3年後には指名客が60人に
入社当時は85キロくらいあった体重が1ヶ月で15キロもやせました。毎食3~4杯くらいご飯を食べましたが、それ以上に自主練を毎日ハードにこなしたという事でしょうか。私は日本一になりたいという目標を持っていたので練習が辛いとは感じませんでした。そして努力した結果、1年1ヵ月後に初めてお客様をカットさせていただきました。それから徐々にお客様が増えて3年後にはご指名が約60人、1ヶ月で160人くらいのお客様を接客させていただきました。当時の髪ingでは教育カリキュラムが7年でした。大体それぐらいで独立するスタッフが多かったですが、私はさらに3年務めて10年間勤務しました。その間、サロンワークに励みながらコンテストにも積極的に出場しました。新人の頃は部屋にテレビがなくてゲームや携帯電話もない時代でしたので、練習しかやることがなかったんですが、今思えば楽しい毎日でしたね。でも、新人時代のコンテストでの思い出は、入賞したことよりも負けた時の方が印象に残っていますね。
コンテストの前日は朝まで練習をして徹夜で臨んだ
コンテストの前日は1日に100名ほどご来店されるお客様の接客、アシスタント業務をし、閉店後に朝まで練習をして寝ないでコンテストに参加していました。一度優勝してからは験を担ぐ意味でも、次の大会も同じように徹夜で臨んでいました。理由は、寝ると感覚が狂って体が動かなくなりそうな気がしたからです。必死に練習をし、1年後ぐらいにやっと優勝することができました。先輩たちは自分が負けたくないから、後輩には技術を教えてくれません。業界誌も今ほど充実していなかったので、優勝作品を写真に撮ったりして自分なりに学びました。でも、優勝した人もマネされたくないので、審査が終わるとすぐに作品を持って行って私たちには見せてくれないんですよ(笑)。それで、競技中にビデオ撮影をする人が多かったです。それと、研究団体で競技育成のレッスン会があったのでそこでテクニックを学びました。私たちのようなウィッグ競技に参加する新人や全国大会を目指す上級者の方も一緒にレッスンをしていましたから、本当に厳しい環境だったことを覚えています。田中先生から教わったのは、モデル競技になって全国大会を目指した時からでしたね。
国際大会に12年間も出場して22個の金メダルを獲得
実は、ある年の東京都大会の終了後に、先生が「来年はうちからチャンピオンを出すぞ!」って声を上げたことがありました。私はまだ5年目で実力がなかったので、先輩たちがチャンピオンになればいいなと思い弱々しく声を上げたんです(笑)。そしたら先生からひどく叱られて、「よし、自分が頑張ってチャンピオンになってやる」って奮起しました。するとその後の東京大会で優勝することができ、東京代表として全国大会でも優勝することができました。それが25歳の時で、全国チャンピオンの最年少記録になったんです。国内の大会はそれが最初で最後で、その後は日本代表として国際大会に出場し、世界大会を含めて金メダルを22回もいただきました。長年コンテストに出場して思うのは、一番大事なことはやはり基本のカットテクニックだということです。特に、毛の方向性を変えるテクニックがないとチャンピオンにはなれません。それが分かったのは国際大会に出て6年目くらいの頃でした。30歳を過ぎた頃にそんな勝つコツをつかんだ気がします。
努力は見せたり自慢するのではなく地道に頑張ること
サロンワークでは5年目に歌舞伎町にあった新宿店の店長になりました。コンテストに出場するには営業成績を上げる必要があり、毎日40人ほど接客をして両立していました。さらに、店長としてスタッフを教育することも仕事の1つです。高いレベルで技術を習得し、サロンワークでもお客様から支持を得てさらに人を育てる。これらは田中先生から学んだ考え方の1つです。その考えを継承して挑みましたが、私が店長を勤めた新宿店は、最初はまったく売り上げが上がりませんでした。なぜかというと、そこのお店は元々安いクイックサロンがあった場所で、髪ingに変わった日から急に4,725円のサロンになったから。お客様はお店の前まで来て、値段を見て帰ってしまうんです。最初はお客様が来店されず、どうなることかと思いましたが、3年弱で当初の3倍までアップし、最終的にお客様の数を5倍近くまで上げることができました。チラシも出さずデータ管理もせず地下なので表に看板も出せません。ただ、私が日本チャンピオンになり、世界大会に挑戦していることが地域で噂になり、口コミでお客様が増えていきました。私たちはコツコツ頑張れば必ず地域の方が評価してくださいます。努力は大事ですが、決してそれを見せたり自慢するのではなく地道に頑張るというのが私の持論です。
私の理念は経営者たるもの研鑽と経営を両立すること
世界チャンピオンになった頃、実家に戻ってお店を手伝ったことがありました。あるお客様を当時人気のベッカムのようなカッコいいショートにしたんです。すると「もっと短い方がいい」と言われて、20分かけてカットした頭をバリカンで坊主にしました(笑)。その時、この場所では私の仕事は求められていないと思い実家を継ぐことを断念しました。その後、30歳までに出店を計画していた私の人生設計と、勤務して10年という時期が重なった時に独立しました。ただし、経営者は研鑽と経営を両立しないとだめだというのが私のポリシーなので、国際大会の出場は継続しました。さらに、オープン当初から「10年後には寮を建てて10店舗を展開しスタッフは40人にしたい」というビジョンも掲げていました。オープンで苦労したのはやはり資金面でした。なにしろ3ヶ月に1度の海外遠征はすべて自費でしたから。それと、経営者になって感じたのは孤独感でした。今までサロンにいれば田中先生の影響で自然と様々な情報が集まってきていましたが、独立してみると一切の情報が入って来なくなってしまい、孤独と不安でいっぱいだったのを覚えています。
自信を持てるように変えてあげることが私たちの使命
現在、さまざまな方面で講習活動も行っていますが、その中でタカラベルモントさんのIKIMEN(粋男)Barber Projectの講師を担当することになりました。今の時代に求められるサービスやサロン空間・技術・経営ノウハウをご提供し、皆様のお店を理容師もお客様もみんなが理想と考えるバーバーサロンへと導き、サポートする活動です。私が理容師として常に考えているのは、私たちは与えることが仕事だということです。例えば、髪を切ることでその人が幸せになったり、自信を持てるように変えてあげることが私たちの使命です。そのために研鑽をして自分の技術に自信を持つことが必要で、それをかなえるトレーニングが重要になります。それを理解して経営に取り組むことが理容業で成功する秘訣ではないでしょうか。そういう技術は思いを込めて教えないと、片手間ではなかなか伝わりません。私はお客様もスタッフもみんな豊かになれる業界に変えようと10年前に夢見て出店しました。目標には少し届かなかったですが、それでも7店舗を経営しています。私も最初は売り上げが上がらないことに悩んでいましたが、いろんな講習会に参加したり人と出会うことで私たち理容師の存在意味に気づいたのでそれをお伝えできればいいですね。
華やかさばかりを求めるのではなく地道に努力を継続して
今、私が抱いている夢は理容業に入ってくる人を増やすこと、そして多くの人に私の考えや経験した喜びを伝えて若い人たちにいいサロンを作ってもらうことです。私たちは技術はもちろん心のこもった接客をするのが仕事です。切るだけなら低料金店でいいんです。そうじゃなく、心のこもったいいサロンを作りそれがどの地域であっても立派に成功してほしいと願っています。この業界において独立は開放です。修行はつらくて理不尽なことが多いですから(笑)。だから私は、経験を積んでビジョンを持っている人たちをサポートしていきたいです。うちのスタッフも「目標と約束」を掲げてそれを果たす努力をしていますよ!最後にこの業界にいる若い人に対して、華やかさばかりを追い求めるのではなく地道に努力を継続してほしいと思います。10年やれば何かが見え、20年続ければ少し冷静に見つめることができるはずです。さらに30年続ければもっと人に優しくなれるでしょう。そんな努力を重ねて、人に何かを与えられる理容師を目指して頑張ってください。
佐藤秀樹(サトウヒデキ)
HAIR RESORT CLIPS代表。山形県出身。中央理美容専門学校卒業。髪ingに入社し田中トシオ氏に10年間師事した後、2003年にHAIR RESORT CLIPSをオープン。三鷹・吉祥寺を中心に7店舗を経営する。サロンワークと両立しつつ日本代表として5度も世界大会に出場し、ヘア・ワールド2004ミラノで金メダルを受賞するなど数々のタイトルを獲得。さらに、ヘア・ワールド2010パリでは念願の4種目総合個人最高世界チャンピオンにも輝く。現在は後進育成に力を注ぎコンテストで培った技術で多くのサロン顧客を幸せにしている。全理連中央講師、全理連ナショナルチームトレーナー、CNC本部講師競技局長、クラシエ専任講師、東京都理容組合専任講師。
シリーズ:この人から学ぶ、成功の秘訣「TBMG」
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